苦手な相手との向き合い方 そこに「善」はあるか
日常における「苦手な人」との対話
私たちの日常において、全ての人と円滑な人間関係を築くことは容易ではありません。職場、友人関係、地域社会など、様々な場で「どうも気が合わない」「生理的に苦手だ」と感じる相手に出会うことは少なくないでしょう。こうした苦手な相手とのコミュニケーションや距離感は、多くの人にとって悩みの種となり得ます。
避けたいけれど避けられない状況、無理に合わせるべきか、それとも距離を取るべきか。このような状況で、「善」とはどのように考えられるのでしょうか。単に自分の感情に従って相手を避けることが「善」なのか、それとも関係性を維持するために努力することが「善」なのか。この問いには、一つの絶対的な答えがあるわけではありません。
具体的な事例:職場の同僚への苦手意識
例えば、職場にどうしても苦手だと感じる同僚がいるとします。その同僚は、仕事の進め方が乱暴だったり、言葉遣いがきつかったり、あるいは単に価値観が大きく異なったりするなど、理由は様々かもしれません。業務上、会話や協力が避けられない場面も多い中で、どのように接すれば良いのでしょうか。
- 可能な限り距離を取る: 必要最低限の会話に留め、感情的な関わりを避ける。
- 相手の良い点を探す: 苦手意識を克服するため、意識的に相手の肯定的な側面を見つけようと努める。
- 自分の感じ方を探求する: なぜその相手が苦手なのか、自分自身の内面にある感情や価値観を深く探る。
- 業務上の必要性と割り切る: 個人的な感情は横に置き、プロフェッショナルとして業務に必要なコミュニケーションのみを行う。
これらの対応は、状況や個人の性格、さらには「何を善と見なすか」という視点によって、それぞれ異なる意味合いを持ちます。
「善」の視点からの考察
苦手な相手との向き合い方において、「善」は複数の角度から考察することができます。
一つの視点は、義務論的な考え方です。この考え方では、特定の原則や義務に従うことが善とされます。職場においては、業務を円滑に進めるための協力や、相手への敬意といった義務が存在すると考えられるかもしれません。苦手な相手であっても、職務上の義務として最低限のコミュニケーションや協力を維持することが「善」であると見なせるでしょう。個人的な感情に流されず、決められたルールや役割を果たすことが重視されます。
別の視点は、功利主義的な考え方です。これは、行為の結果として生じる全体の幸福や利益を最大化することを善とします。苦手な相手と無理に深く関わることでストレスが増大し、自身のパフォーマンスが低下したり、周囲の人間関係に悪影響を及ぼしたりする場合、適度な距離を取ることが結果として全体の利益(業務効率の維持、職場の雰囲気の安定など)に繋がるのであれば、それが「善」であると判断される可能性もあります。一方で、自身の努力によって関係性が改善され、それが長期的な職場の調和に貢献するのであれば、努力することもまた「善」となり得ます。
さらに、徳倫理学的な視点からは、「どのような人間であるべきか」という問いが中心になります。苦手な相手に対して、感情的に反応するのではなく、忍耐強さ、寛容さ、敬意といった徳を発揮しようと努めることが善と見なされるでしょう。これは、特定の行為の結果よりも、行為者の内面的なあり方や性格に焦点を当てます。苦手な相手との関わりは、自身の内面的な成長の機会と捉えることも可能かもしれません。
また、「善」を自己との関係性の中で捉える視点もあります。無理をして自分をすり減らしながら相手に合わせ続けることが、自己に対する「善」であると言えるのかどうか。自身の心の健康や平穏を保つことも、広い意味での「善」に含まれると考えるならば、自身の感情に正直になり、健全な境界線を引くことも重要な選択肢となり得ます。
実践への示唆:多様な「善」の可能性
苦手な相手との向き合い方に唯一の正解はありません。上記の哲学的な視点は、自身の状況において何が「善」なのかを考える上でのヒントを提供してくれます。
- 業務上の責任や義務を果たすことを最優先とするのか。
- 全体の調和や効率といった結果を重視するのか。
- 自身の人格的な成長や心の平静を大切にするのか。
- 相手への配慮と自己への配慮のバランスをどう取るのか。
これらの問いは、自身の価値観や置かれている状況によって、異なる答えを導き出すでしょう。苦手な相手との関わりは、単なる人間関係の困難として片付けるのではなく、「私にとって、あるいはこの状況にとっての『善』とは何か」という問いを深める機会と捉えることができます。
結論として、苦手な相手との向き合い方における「善」は、画一的な基準で測れるものではありません。自身の内面、相手との関係性、そして置かれている状況を総合的に考慮し、多様な「善」の可能性の中から、自身が納得できるあり方を探求していくプロセスそのものが、対話集の目的とする「善」の探求と言えるのかもしれません。