他者の評価と向き合う時 そこに「善」を見出すには
他者の評価という迷宮と「善」の探求
私たちは社会の中で生きており、多かれ少なかれ他者からの評価を意識して暮らしています。職場で認められたい、友人に好かれたい、パートナーに理解されたい。このような思いは自然なものかもしれません。しかし、この「他者の評価」を追い求めるあまり、自分の本心や価値観との間にずれが生じたり、人間関係において不器用な振る舞いをしてしまったりすることもあります。
評価されること、認められることは、自己肯定感や自信に繋がることもありますが、時にはそれが行動原理の中心となり、純粋な「善意」や誠実さから遠ざかるように感じられることもあります。他者の評価と向き合う時、私たちはどのように「善」を捉え、行動すれば良いのでしょうか。
事例:評価と善意の狭間で
ここで一つの事例を考えてみます。
事例: あなたは職場でチームの一員として働いています。上司や同僚からの評価を良くしたいという気持ちが強くあります。ある時、チームの課題解決のために意見を求められました。いくつか考えはありますが、一つは「評価されそうな、無難だが少し貢献になりそうな意見」、もう一つは「あまり評価されないかもしれないが、本質的でチームにとって本当に必要だとあなたが信じる意見」です。あなたは結局、前者の「評価されそうな意見」を述べました。その意見は通り、一時的にあなたは評価されたように感じました。
この行動は、「評価を得る」という目的においては成功したと言えるかもしれません。しかし、チームにとって最善の解決策を追求するという点や、自分自身の信念に誠実であるという点から見ると、どう考えられるでしょうか。他者の評価を意識したこの行動は、「善」と言えるのでしょうか。あるいは、どのような「善」が含まれている、あるいは欠けていると言えるのでしょうか。
複数の視点から考察する「評価と善」
この事例に対して、いくつかの哲学的な視点から考えてみましょう。
1. 功利主義的な視点: 功利主義は、行為の結果がもたらす幸福や快楽の総量を最大化することを善とみなします。この視点から見ると、あなたの「評価されそうな意見」を述べた行為が、結果としてチームの課題解決に一定の貢献をし、あなた自身の評価を高め、チーム内の雰囲気を一時的に良好に保ったのであれば、それはある種の「善」に繋がったと解釈できるかもしれません。しかし、もしあなたが述べなかった「本質的な意見」の方が、より大きな成果や長期的な幸福をもたらし得たのであれば、全体として見れば最大の善を生み出したとは言えない可能性もあります。行為の内面的な動機よりも、その結果に焦点を当てるのが功利主義です。
2. 義務論的な視点(カントなど): 義務論は、行為それ自体の性質や、それが普遍的な道徳法則に従っているかどうかに焦点を当てます。行為の動機が重要視されます。カントによれば、真に道徳的な行為は、義務に基づき、それ自体が善であると判断される行為であり、個人的な欲求や他者からの評価といった傾向性によって行われるべきではありません。この視点から見ると、他者からの評価を得たいという自己利益に基づいた動機で行われた行為は、たとえ結果が良かったとしても、真の道徳的な「善」とは区別されると考えられます。自分の内なる声や、チーム全体の利益という義務(カント的な意味での義務とは異なるかもしれませんが)に基づいて行動することこそが善である、と考えることができるかもしれません。
3. 徳倫理学的な視点(アリストテレスなど): 徳倫理学は、「どのような人間であるべきか」という問いに焦点を当てます。行為そのものの結果や規則への適合性だけでなく、行為者がどのような性格や徳を備えているかが重要視されます。この視点から見ると、他者の評価に過度に左右されることは、勇気、誠実、知慮といった徳を十分に備えていない状態であると捉えられるかもしれません。真に徳のある人は、外部からの評価に振り回されることなく、自身の内なる良識や経験に基づき、最善と思われる行動を選択できると考えられます。この場合、「評価されるため」ではなく、「チームのために、そして自分自身の信念に忠実であるために」という動機で行動できる状態こそが、徳ある状態、すなわち善なる状態であると考えることができるでしょう。
評価を意識する行動が示唆すること
これらの視点から見えてくるのは、他者の評価を意識する行動が、必ずしも悪いとは断定できないものの、それが唯一の、あるいは主要な動機となった場合、そこには倫理的な複雑さが伴うということです。
- 評価を得ることは、自己保身や集団への適応という側面を持ち、ある種の「賢さ」や「立ち回り」と言えるかもしれません。しかし、それが本質的な目的や誠実さを犠牲にするのであれば、人間関係の質の低下や自己との乖離を招く可能性も秘めています。
- 真の「善」が、他者への配慮、誠実さ、勇気ある行動、あるいは内的な義務感に基づくものだと考えるならば、他者の評価を過度に意識することは、それらの「善」を発揮する上での障壁となり得ます。
他者の評価を完全に無視して生きることは現実的ではないかもしれません。しかし、自分が行動する際の動機が、単に「評価されたい」という外的な要因にどれだけ依存しているのか、あるいは「これが正しいと思うから」「相手にとって必要だと感じるから」という内的な要因にどれだけ基づいているのか、そのバランスを意識することが重要なのではないでしょうか。
自分自身の「善」を見つめ直すヒント
他者の評価に囚われず、自分自身の考える「善」に基づいて行動するためには、以下の点を考えてみることが助けになるかもしれません。
- 行動の「動機」を問い直す: なぜその行動をとるのか。評価されたいからなのか、それとも他に理由があるのか。
- 自分自身の「価値観」を確認する: 自分が人間関係や仕事において、本当に大切にしたいことは何か。評価よりも優先すべきものは何か。
- 「他者の評価」と「自分自身の良心」を区別する: 外からの評価は参考にはなるかもしれませんが、自分自身の行動の「善悪」を最終的に判断するのは、内なる良心であると考える視点を持つこと。
- 長期的な視点を持つ: 短期的な評価を得るための行動が、長期的な信頼関係や自分自身の精神的な安定にどう影響するかを考えてみること。
まとめにかえて
他者の評価と向き合うことは、私たちにとって避けて通れない課題の一つです。評価を求める心理自体が即座に「悪」であるとは言い切れません。しかし、それが私たちの行動原理の中心となった時、人間関係における「善」のあり方や、自分自身の誠実さとの間に葛藤を生むことがあります。
この記事では、功利主義、義務論、徳倫理学といった異なる視点から、評価と善の関係性を探求しました。絶対的な答えはありません。重要なのは、他者の評価に一喜一憂するだけでなく、自分がどのような動機で行動しているのか、そして自分にとって、そして周囲にとって、真の「善」とは何なのかを、立ち止まって問い続けることではないでしょうか。この対話を通して、私たちは他者との関係だけでなく、自分自身との関係における「善」のあり方を見出していくのかもしれません。