期待に応えられない時 そこに「善」はあるか
人間関係における「期待」の重圧
私たちは日々の生活の中で、他者からの様々な期待に直面します。職場の上司からの業務遂行への期待、友人からの相談への共感やアドバイス、家族からの役割への期待など、形は異なりますが、誰かから何かを「してほしい」「こうあってほしい」と望まれる状況は少なくありません。
そして、その期待に応えられない時、私たちはしばしば内心で葛藤を覚えます。相手を失望させてしまうのではないか、自分は不誠実なのではないか、といった思いが巡るかもしれません。この「期待に応えられない」という状況において、私たちの行為や選択は、人間関係における「善」とどのように関わってくるのでしょうか。
具体的な事例から考える
いくつかの具体的な例を考えてみます。
- 事例1:職場の依頼 あなたは複数の業務を抱え手一杯の状態です。そこに、同僚から緊急ではないが時間を要するタスクの協力を頼まれました。その同僚は以前あなたを助けてくれた経験があり、期待に応えたい気持ちもありますが、引き受けると納期遅延のリスクが高まります。
- 事例2:友人からの相談 親しい友人から、深刻な悩みの相談を受けました。すぐに話を聞いてほしいと言われていますが、その日はプライベートでどうしても外せない予定が入っています。友人の力になりたい気持ちと、自分の予定を優先したい気持ちの間で揺れ動きます。
- 事例3:家族からの要望 実家から、週末に家族が集まるから帰省してほしいと頼まれました。しかし、あなたは自宅で静かに過ごし、心身を休めたいと感じています。家族の期待に応えることが「良い子」であるかのように思える一方で、自分の本心とは異なります。
これらの状況で、あなたは期待に応えるべきでしょうか。それとも断るべきでしょうか。どちらの選択が「善い」のでしょうか。
「期待に応えること」は常に「善」なのか
伝統的な倫理観、例えば義務論的な視点からは、他者との約束や期待に応えることは、ある種の義務として捉えられるかもしれません。約束を守ること、困っている人を助けること、といった行為自体に道徳的な価値を見出す考え方です。この視点からは、期待に応えようと努力すること自体が「善い」行為と見なされる可能性があります。
一方、結果に焦点を当てる功利主義的な視点からは、期待に応えるかどうかの「善」は、それによって生じる全体の結果によって判断されます。期待に応えることで相手は一時的に喜ぶかもしれませんが、あなたが無理をした結果、他の重要な業務が滞ったり、心身を壊したりすれば、長期的に見て関係性や全体の幸福量は減少するかもしれません。逆に、期待を断ったとしても、その理由を誠実に説明し、別の形で協力する代替案を示すなどすれば、結果としてより建設的で持続可能な関係性を築くことができるかもしれません。
また、アリストテレス的な徳倫理学の視点からは、期待に応えるかどうかという個別の行為そのものよりも、その行為を通してどのような人間であろうとするかが問われます。例えば、無理な期待に安易に応じるのではなく、自己の限界を認識し、誠実に伝えるという行為は、「正直さ」や「思慮深さ」といった徳に基づくものと見なされるかもしれません。あるいは、相手への配慮から自己犠牲を払うことは「慈愛」や「友愛」の表れと見なされる一方で、その犠牲が過度であれば「自己軽視」といった不徳に繋がる可能性も示唆されます。
期待への向き合い方に見出す「善」のヒント
これらの視点から、「期待に応えられない」という状況を考えるとき、単に「応える=善」「応えない=悪」という二元論では捉えきれない複雑さがあることがわかります。そこに「善」を見出すためのヒントは、行為そのものだけでなく、その背景にある意図、もたらされる結果、そして自己や他者への向き合い方にあると考えられます。
- 意図を問い直す: なぜ期待に応えたいのか。相手のためか、それとも自分が良く見られたいからか。なぜ応えたくないのか。単なる面倒くささか、それとも正当な理由があるのか。
- 結果を多角的に見通す: 期待に応えた場合、応えなかった場合、それぞれ自分や相手、そして関係性全体にどのような影響が及ぶかを想像する。目先の結果だけでなく、長期的な影響も考慮に入れる。
- 誠実な対話を試みる: 期待に応えられない理由や状況を、可能であれば相手に誠実に伝える。一方的に判断するのではなく、対話を通して相互理解を深める努力は、「善い」関係性を築く上で重要な要素となり得ます。期待に応えられないことそのものよりも、その後のコミュニケーションのあり方が関係性の質を左右することもあります。
- 自己の限界と向き合う: すべての期待に応えることは物理的、精神的に不可能です。自身の時間、エネルギー、能力には限界があることを認め、それを踏まえた上で、何に「はい」と言い、何に「いいえ」と言うかを選択することも、自己を尊重し、持続可能な人間関係を築く上で必要な「思慮深さ」や「誠実さ」に繋がるかもしれません。
まとめ
人間関係における期待に応えられない時、そこに絶対的な「善」の基準を設けることは困難です。期待に応えることが「善」とされる場面もあれば、誠実に期待に応えられない理由を伝え、断ることが結果として「善」に繋がる場合もあります。
重要なのは、単純な「できるかできないか」だけでなく、その状況における様々な要因(相手の意図、自分の状況、考えられる結果など)を考慮し、自身の良心や、どのような人間関係を築いていきたいかという哲学に基づき、思慮深く選択することではないでしょうか。そして、その選択に至るプロセスや、その後のコミュニケーションのあり方そのものが、人間関係における「善」の実践として捉えられるのかもしれません。