SNSでの「いいね」は善意か 表面的な関わりのその先を考える
SNSにおける交流と「善」
現代において、SNSは人間関係を維持し、広げる上で欠かせないツールとなっています。多くの人が日常的に投稿し、それに対して「いいね」を押し、コメントを寄せるといった交流が行われています。このようなSNS上での交流は、しばしば手軽なコミュニケーション手段として機能しますが、時にその表面性ゆえに、「善」のあり方について問いを投げかけることもあります。
例えば、知人の投稿に対して特に強い関心がないにも関わらず、あるいは内容をよく読まずに、習慣的に「いいね」を押すといった行為は広く見られます。これは、相手への配慮や、関係性を円滑に保つための行動とも解釈できますが、一方で、そこに真の関心や共感が伴わない場合、それは本当に「善い」行為と言えるのでしょうか。
表面的な「いいね」がもたらすもの
SNSにおける「いいね」やポジティブなコメントは、投稿者にとって承認欲求を満たし、孤立感を和らげる効果があると考えられます。受け取った側は、自分の投稿が他者に見られ、評価されたと感じることで、肯定的な感情を抱くかもしれません。この点においては、「いいね」は他者に喜びや安心感を与える行為として、「善」の側面を持っていると見ることができます。結果として相手を良い気分にさせる、あるいは関係性を維持・強化するという功利主義的な視点からは、表面的な「いいね」も一定の価値を持つと言えるでしょう。
しかし、このような交流が形式的なものに留まり、投稿の内容への真の理解や共感を伴わない場合、それはどれほど深い人間関係の「善」に繋がり得るのでしょうか。義務論的な観点から見れば、行為そのものの動機や性質が問われます。単なる習慣や義理でなされる「いいね」は、たとえ相手が喜んだとしても、そこには誠実さや真摯な関心が欠けていると捉えることもできます。この場合、「いいね」はコミュニケーションの形式を満たしているだけで、人間関係における真の善意の発露とは異なるのではないかという疑問が生じます。
真の関心と「善」
人間関係における「善」を、相互の理解、共感、誠実さに基づいた結びつきだと考えるならば、SNSにおける表面的な交流だけでは不十分かもしれません。もちろん、SNSが真の関心を持つきっかけになったり、深い関係性の維持に寄与したりすることもあります。投稿内容についてより深く知りたいと個人的に連絡を取る、あるいはオンラインでの交流をきっかけに現実世界での対話に繋がるといったケースは、SNSが「善い」人間関係の構築に貢献している例と言えるでしょう。
重要なのは、「いいね」という行為そのものに善悪の絶対的な基準を設けることではなく、それがどのような意図で行われ、どのような結果をもたらしているのかを多角的に考察することです。受け取る側も、「いいね」の数を自己肯定の唯一の基準とするのではなく、その背後にあるかもしれない様々な意図や、より深い関心を示してくれる人との交流を大切にする姿勢も必要かもしれません。
読者自身への問いかけ
SNSでの交流において、自分自身はどのような動機で「いいね」を押しているでしょうか。また、他者からの「いいね」に何を期待し、どう受け止めているでしょうか。形式的な交流と、真の関心や共感に基づいた交流のバランスをどのように取るのが、自分にとって、そして関係性にとって「善い」あり方なのでしょうか。
SNSにおける「いいね」は、手軽なコミュニケーションのツールであり、使い方によっては人間関係の円滑化に役立つ可能性があります。しかし、それが形式的なものに終わり、真の関心や誠実さを伴わない場合、人間関係における「善」のあり方について深く考えるきっかけを与えてくれます。表面的な交流のその先に、どのような「善い」関係性を築いていくのかは、私たち一人ひとりの意識と行動にかかっていると言えるでしょう。