「ありがとう」を期待してしまう時 それは善意か、それとも 関係性の問い直し
「ありがとう」という言葉に揺れる心
私たちは日常生活の中で、様々な形で他者と関わり、助け合って暮らしています。誰かに何かをしてもらったとき、「ありがとう」と感謝の気持ちを伝えることは、円滑な人間関係を築く上で大切な行為とされています。同様に、自分が誰かに何かをしたとき、相手からの感謝の言葉や態度を受け取ると、心地よい気持ちになるものです。
しかし、もしその感謝が期待通りではなかったらどうでしょうか。あるいは、そもそも感謝されることを内心で強く期待している自分に気づいたとき、その期待は自身の行為の「善性」とどのように関わるのでしょうか。今回は、感謝されることへの期待に焦点を当て、「善」とは何か、より良い関係性のあり方とは何かを哲学的な視点から探求します。
事例から考える感謝の期待
いくつかの具体的な事例を通して考えてみましょう。
- 事例1:職場で同僚の仕事を急遽手伝った。 相手は「助かります」と一度言ったものの、その後は特に触れてこない。大変な思いをして手伝ったのに、もう少し感謝されても良いのではないかと、内心で少し残念に感じた。
- 事例2:親しい友人の引越しを一日がかりで手伝った。 引越し後にお礼の連絡はあったが、交通費や食事代などの負担を考慮した形での感謝はなく、少しモヤモヤが残った。
- 事例3:恋人のために、時間や労力をかけてサプライズを計画した。 恋人は喜んではくれたが、「当たり前」のように受け止めているように見え、期待していたほどの感動や感謝の表現がなかった。
これらの事例に共通するのは、自分の行為に対して、相手からの特定の「感謝の形」を期待し、それが満たされない場合に生じる心の動きです。行為自体は相手のためになる「善いこと」をしたはずなのに、なぜこのような感情が生まれるのでしょうか。そして、この「感謝への期待」は、果たしてその行為を純粋な「善意」と呼べるのか、それとも何らかの見返りを求める気持ちが混ざっているのか、という問いが浮上します。
感謝の期待を巡る哲学的な視点
私たちの行為の動機や、そこに含まれる「感謝の期待」について、複数の哲学的な視点から考察することができます。
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義務論的視点:行為そのものの善さ イマヌエル・カントのような義務論の立場からは、行為の善さはその結果や動機に依存するのではなく、行為そのものが道徳法則に従っているかどうかにかかると考えられます。人を助けるという行為が、自身の内にある理性的な義務感に基づいているのであれば、それは善い行為です。この観点から見れば、感謝されることを期待することは、行為の動機に不純な要素(自己満足や他者からの評価)を混入させることになり、行為の純粋な善さを損なう可能性が考えられます。感謝は結果として生じるものであり、期待すべき対象ではない、という見方ができます。
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功利主義的視点:結果としての最大多数の最大幸福 ジェレミー・ベンサムやジョン・スチュアート・ミルの功利主義は、行為の善さをその結果によって評価します。感謝されることを期待し、実際に感謝されるという相互作用は、行為者と受け手の双方に幸福(功利)をもたらし、助け合いの連鎖を生むかもしれません。もし「感謝への期待」が社会全体の幸福を増大させる(例えば、人々が進んで他者を助けるようになる)のであれば、功利主義的には、その期待も広い意味での「善」に貢献すると解釈できる可能性もあります。しかし、個々の事例においては、期待が満たされないことによる不幸も考慮に入れる必要があります。
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徳倫理学の視点:善い人間であること アリストテレスの徳倫理学では、特定の行為が善いか悪いかだけでなく、「善い人間」であるとはどういうことか、どのような徳を持つべきかを探求します。他者を助けるという行為は、友愛や寛容といった徳の発現と見なされるでしょう。感謝されることを期待する感情が、寛容さや見返りを求めない心といった徳とどのように両立するのか、あるいは対立するのかを考えることが重要になります。徳を高める過程で、感謝されない状況でも穏やかな心を保てるようになること自体が、一つの徳の現れと考えることもできます。
感謝の期待とどう向き合うか
感謝を期待してしまう自分を「善くない」と断罪する必要はありません。人に認められたい、自分の行いが誰かの役に立ったことを確認したい、という気持ちは、人間として自然な感情の一部でもあります。問題は、その期待が満たされないときに、関係性にどのような影響を与えるか、そして自身の心の平穏をどう保つか、という点にあります。
一つの考え方として、行為の動機を深く内省することが挙げられます。「なぜ私はこの人を助けたいと思ったのだろうか?」「その行為を通じて、私は何を求めているのだろうか?」といった問いを自身に投げかけることで、感謝されたいという気持ちだけでなく、純粋な助けたい気持ちや、単に自分がそうしたいからしたのだ、という自己完結的な動機に気づくことがあります。
また、感謝の「形」は人それぞれ異なり、言葉で直接的に伝えられなくても、別の形で感謝を示している可能性もあります。相手の状況や性格を理解しようと努めることも、無用な期待による落胆を減らすことに繋がるかもしれません。
まとめにかえて
人に何かをしたときに感謝を期待してしまう気持ちは、複雑であり、一概に「善」とも「悪」とも断定できません。それは、私たちの行為の動機、人間関係における相互作用、そして自身の心のあり方が intertwined(絡み合っている)であることを示しています。
感謝の期待に気づいたとき、それを否定するのではなく、自身の内面を探求し、感謝の多様性を理解しようと努めることが、他者とのより成熟した、そして何よりも自分自身にとって穏やかな関係性を築くための一歩となるのではないでしょうか。絶対的な「正解」があるわけではなく、それぞれの状況において、自身が何を大切にしたいのかを問い続けることが、人間関係における「善」を探求する道と言えるでしょう。